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1.自然破壊と浪費の愛知万博
2.愛知万博計画の経過
3.万博見直し運動の経過と成果
4.万博中止の運動を旺盛に展開しよう
5.万博問題資料集

愛知万博計画の経過

 このように問題の多い愛知万博の開催を県民が望んだわけではありません。計画の経過をふりかえってみましょう。
愛知県民に万博のことが知らされたのは、1988年10月18日のことでした。県議会の最終日に、中日新聞で、鈴木県知事(当時)が万博誘致を考えていることを中部財界との食事会で発表することが報道されました。県民には全く「寝耳に水」のことでした。この万博は「中部国際空港」「第2東名・名神高速道路」「リニア中央新幹線」という3大巨大事業(「3点セット」)を推進する起爆剤(「プラス1」)として考えられたものでした。
1990年に県はこの万博を、あいち学術研究開発ゾーンの中核拠点に想定している、瀬戸市南東部で行うことを予定し、万博開催後、大規模な住宅建設(新住宅市街地開発事業)を行うことを決めました。国は「環境万博」という位置づけを前面にして、95年12月の閣議で確認し、BIEに届け出ました。97年6月12日、BIE総会で日本は、カナダのカルガリーと争って、2005年に万博を開催する権利を獲得しました。そして、この年の10月に愛知万博を準備する財団法人「2005年日本国際博覧会協会」を設立し、計画の具体化をはじめました。
しかし、99年5月の「海上の森」でのオオタカ営巣の発見、99年11月に来日したBIE調査団による、「(愛知万博は)20世紀型の開発至上主義」という厳しい指摘を受けるなど国内外の厳しい批判が高まった結果、2000年4月に、国と県は、住宅建設や大規模な道路建設を断念し、市民団体が参加した「愛知万博検討会議(海上地区を中心として)」を設置し、万博の海上地区の利用を中心とした会場計画などの検討をすすめました。
この結果、万博による「海上の森」の利用は大幅に縮小されたものの、国、県、協会は、主会場に変更した愛知青少年公園の利用や財政計画など事業計画全体について、市民とともに検討することもせず、環境影響評価の手続きのやりなおしを拒否するなど県民の要求を無視して、BIEに計画を登録。BIEは12月の総会で計画の登録を承認しました。
BIE登録後、国、県、協会は愛知万博計画の具体化をすすめるため、財界の意向をくんで、70年の大阪万博のプロデューサーであり、元経済企画庁長官だった、堺屋太一氏を協会の最高顧問にすえて、巨大イベントとして愛知万博の具体化をはかろうとしました。しかし、こうした動きに県民の批判が広がり、わずか3ヵ月で堺屋氏は最高顧問を辞任するにいたりました。
現在、国、県、協会は各3人の総合プロデューサー、チーフプロデューサーと、その下にさらにプロデューサーをおく体制をくみ、堺屋氏から、赤字になって失敗すると警告された計画をもとに会場計画、事業計画の具体化をはかっています。しかし、これまで、県民から批判のあった問題点になんらこたえることなく計画を強行しています。このままでは失敗することは明らかです。

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