終戦の日の15日、名古屋市北部に残る戦跡を巡り、戦争と平和を考えるツアーがおこなわれました。小学4年のときに名古屋市北区で米軍による空襲に遭い自宅が焼失した経験を持つ大島良満さん(82)が案内しました。(本紙・村瀬和弘)
石造りの鐘「『戦争はいかん』という音だ」
大島さんが主宰する「戦跡ウォッチなごやの会」は1990年から毎年8月15日に名古屋北部(北区、東区、中区)の戦跡巡りをおこなっています。
一行は、東区のJR大曽根駅近くの「殉職者慰霊碑」を訪ねました。この碑は、1945年4月7日の空襲で殉職した30人の旧国鉄職員を悼むもの。同駅周辺は戦前・戦中、軍用機のエンジンを製造していた三菱発動機(現在の三菱重工)の工場が立地。工場と周辺市街地が米軍の空襲の標的になりました。
大島さんは、「犠牲者のうち12人が女性でした。男性は兵隊に取られていたからです」と説明しました。
北区上飯田東町の霊光院では「延命地蔵」に花を供えました。45年3月24日から25日に名鉄上飯田駅周辺の爆撃で犠牲になった人を追悼するものです。
大島さんは、「戦争は遠い戦地のできごとではありません。知らないうちに身近なところに忍び寄ってきます。犠牲になるのは女性や子どもなのです」と強調しました。
東区の円明寺では、石製の釣鐘を見学しました。41年、当時の政府は金属類回収令を実施。全国であらゆる金属が回収され、兵器の材料にされました。寺院も例外ではありませんでした。円明寺の鐘は42年に供出され、代用に石製の〝鐘〟が吊るされ、戦後も保存されています。突くと「コン」という鈍い音がしました。大島さんは「『戦争はいかん』という音だ」と述べました。
名古屋市役所では夜間の空襲を避けるという理由で黒く塗られた跡が残る屋上の時計台や、燃料や火薬の代用として松やにを採るために削り取られた街路樹などを見ました。
日本共産党の藤井ひろき名古屋市議が参加。「戦跡を周知する案内板の設置などを市に働きかけたい」と語りました。
名古屋空襲
名古屋市東区大幸町(現在ナゴヤドームがあるところ)にあった三菱発動機は米軍の日本本土空襲の第1目標でした。太平洋戦争末期、米軍は名古屋に63回空襲をおこない、死者7858人、負傷者1万378人、被害家屋13万5416戸におよびました。(総務省「名古屋市における戦災の状況」より)