愛知民報

【18.01.14】あいち児相ものがたり① 70年の歩み 元児童相談所長・児童心理司 加藤俊二 戦争孤児救済から出発

 6人に1人の子どもが貧困ライン以下の生活に。貧困の拡大と日本社会のゆがみは、子どもたちにも深刻な影を落としています。愛知には、県10カ所と名古屋市2カ所の児童相談所(児相)があります。同所への相談件数は過去最多となっています。 愛知で児童相談所長などを歴任してきた児童心理司の加藤俊二さんに寄稿してもらいました。(3回連載)

児相とは

  愛知県内各地で児童相談所に関わってきました。児相とは、児童福祉法にもとづく児童福祉の専門機関です。虐待、不登校、非行、障がいなどの困難を抱える児童とその親を支援します。児童とは0~18歳と定めています。
 相談に来る児童もその親も、その人にしかない「人生のドラマ」をもって懸命に生きています。
 困難に直面する児童にとって「自分のために真剣になってくれる存在がいること」―たとえ、希望を託すことができなくても、絶望を投げかけても、受けとめてくれる存在が必要なのです。
 そこに児相の役割があると考えています。

12万3千人

 児童福祉法が制定されたのは敗戦直後の1947年。児相設置から約70年になります。
 児相は、戦争により両親を失った孤児らを保護し救済することからはじまりました。
 上の写真を見てください。日本が敗戦した72年前の東京上野周辺のバラックをねぐらとする戦争孤児らの姿です。孤児は判明しただけでも、全国で12万3千人にのぼります。
 名古屋駅周辺で保護した戦争孤児らの記録がありました。愛知県の児童相談所の前身である愛知県児童鑑別所の鷹羽寮の児童保護台帳です(写真左)。
 その保護台帳全4冊には、戦争孤児ら730名の悲痛な叫びが生々しく記録されています。
◇A君・13歳
 父・硫黄島で戦死  母・空爆死
 姉・行方不明
 本人・F県の飲食店で働くも閉鎖。祖母を頼って名古屋へ来るも行方不明のため保護
◇B君・10歳
 父・K県にて爆死  母・同
 姉・爆死
 兄・満州へ兵隊に行き消息不明
 本人・K市でこじきをし浮浪中を収容。言語不明

 

原点に平和

 日本の児相は、児童の福祉と権利の最大の侵害である戦争が生み出した戦争孤児の保護と救済を原点に出発したのです。
〝平和のうちに生存する権利を有する児童〟〝歴史の希望としての児童〟のために、二度と戦争はしない、「戦争する国」づくりの動きに抗し、平和憲法を守り抜くことが、いま大切です。
 1960年代、障がい児は「就学免除、猶予」の名のもとに教育、医療など人間としての生活の場から隔離されていました。障がい児をもつ親たちは、教師、施設職員、研究者たちと力合わせて不就学をなくす運動を展開していきます。
 その息吹を受けて愛知の児相職員は、相談室での検査、治療や施設内処遇という殻を破り、親と共同し地域で療育するネットワークを作りました。
 そして80年代以降、非行、いじめ、不登校、貧困や虐待など困難に直面する児童に対する取り組みに影響を与えました。
 地域の中で0歳から18歳に至るまで、その時期にふさわしい健やかな育ち、生活と発達が守られる居場所を保障する専門機関としての児相づくりへ発展していったのです。