河村たかし名古屋市長が2月20日、市役所を表敬訪問した中国・南京市の代表団に対し、1937年12月に旧日本軍が当時の中国の首都・南京を占領した際に行った大虐殺を否定する発言をした問題で、日中友好協会県連合会やアジア太平洋・平和文化フォーラムなど、平和・市民団体から市長への抗議や発言撤回・謝罪の要求が続いています。
市長は2月27日の会見で、記者から「南京虐殺があったのか、なかったのか」「非戦闘員の殺害を虐殺ととらえていないのか」と問われ、「30万人の大虐殺はない」と述べ、逃げの答弁に終始しました。
住田代一副市長は、2月議会で「南京市関連の市長の一連の発言は名古屋市の公式見解ではありません」と述べています。
名古屋市のトップが、公式の場で歴史の事実を否定し国際友好に逆行する発言をすることは許されません。河村氏に、市長としての資格が問われています。(本紙・田上光徳)
市民集会で元日本軍兵士が発言
池住義憲・立教大学特任教授や石川賢作・日中友好協会愛知県連合会長ら各界著名人が呼びかけ、3月31日に名古屋市で開かれた「河村市長 南京発言を検証する緊急市民集会」。元日本海軍兵士で駆逐艦の乗組員として南京市で虐殺の現場を目撃した三上翔さん(92)=大阪府=と、虐殺にかかわった元日本軍兵士への面談を重ねて研究してきた小野賢二さん=福島県=が講演しました。
三上さんは、次のように証言しました。
「(日本軍の南京攻略直後の)12月17日に上陸したら、公園や広場に死体の山がいくつもあった。兵隊らしき者はおらず、老人も女も子どもも殺さていた。裸にされた死体、縄で数珠つなぎにされた者、後ろ手に縛られて銃剣で刺された者と、無惨な殺され方をしていた」
翌18日、駆逐艦で見張り番をしていた三上さんは、虐殺を目の当たりにしました。
「河川敷に追い落とされた人々に、機関銃が火を噴いた。撃たれている人から怒りや悲しみの声が上がり、私は進行形の殺人劇を目の当たりにした。それは何日も続き、1台のトラックに20~30人ほど運ばれては同じように殺された」
三上さんは「河村市長が、虐殺を否定したことは許せない。私は何万人もが殺されるのを全部見たわけじゃないが、虐殺がなかったなんてあり得ない」と訴えました。
小野さんは、虐殺にかかわった福島歩兵第65連隊の元兵士と連絡を取り、約200人の証言と、当時の状況を記録した「陣中日記」約20冊を当事者や遺族の協力を得て収集しました。小野さんはその内容を紹介しました。
「軍は兵士への食糧補給すらできなかった。上官の命令で現地徴発(略奪)することになった」
「12月15日の捕虜の総計は2万人。日本軍は食糧問題から捕虜の扱いに困って決断に迫られ、虐殺がはじまっていった」
「捕虜の大集団は、揚子江岸で16、17日に殺された。機関銃で一斉射撃を繰り返した後、石油をかけて焼き、死体を揚子江に流すのに18、19の両日かかった」
「陣中日記」には、「16日、7000人を虐殺。生き残りを銃剣で刺殺」「銃剣で刺した捕虜の死を確実なものとするために、石油をかけて焼いた」「年寄りも子どもも一人残らず殺した」などの記録がありました。