元患者ら 甚目寺町の生家 円周寺で
ハンセン病患者の救済に尽力した愛知県出身の医師、故小笠原登さんの生誕120年を記念する集会が9日、生家の甚目寺町円周寺で開かれ元患者ら約70人が参加しました。
元患者との交流を
集会では愛知県出身の元患者が訴えました。太田國男さんは「患者強制隔離を率先してすすめた愛知県は元患者と故郷の住民との交流会を積極的に実施してほしい。元患者と交流してこそ差別や偏見が解消する」
平野昭さんは住宅を確保しにくいなど療養所を出て社会復帰する困難さを述べ、「療養所退所者が一人でも多く社会復帰できるように支援を」と協力を求めました。
節を曲げず患者治療
ハンセン病患者の人権回復に取り組んできた日本共産党のせこゆき子元衆院議員は、故小笠原医師の業績に触れ、「小笠原医師はらい病には隔離の必要はないと主張し、京都大学病院で患者の外来治療を実践してきた人です。大和民族の純潔を守るという当時の軍国主義の影響を受けた日本らい学会から国賊と迫害されましたが、節を曲げず患者の治療にあたりました。先生が亡くなって25年後の1995年に学会はようやく自己批判しました。先生の遺志を継いで頑張ります」と述べました。
業績紹介の常設展
甚目寺町は2007年、故小笠原登医師に名誉町民の称号を贈りました。同町の人権ふれあいセンターには、同医師の業績を紹介するコーナーを常設しています。
せこ氏らは甚目寺町に小笠原医師を顕彰する記念館の設置を求めてきました。昨年10月にオープンした同センターは、このような運動が反映したものです。
小笠原登医師の略歴
1888年、甚目寺村の円周寺にて僧侶の2男として生まれる。1915年京都帝国大学(現京都大学)医学科卒業。同大にてらい病(ハンセン病)を研究し、25年、新設の皮膚科特別研究室主任、31年、論文「らいに関する3つの迷信」を発表し強制隔離、断種政策を批判。48年、国立豊橋病院、57年、ハンセン病療養所・奄美和光園に勤務。70年、円周寺にて死去。享年81歳。