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戦争の傷跡ここにも 名古屋で戦跡めぐり

 
 「身近なところに戦争の傷跡がありビックリした」―。今年も終戦記念日(8月15日)に名古屋市内で戦跡めぐりが行われ、参加者は「二度と『戦争する国』にしてはならない」との思いを新たにしていました。(愛知県・村上志郎)

 名古屋は71年前、焼け野原でした。63回にわたりアメリカ軍の激しい空襲に見舞われ、50万人以上が被害を受けました。人口に対する被災者の割合は広島、長崎に続き3番目。今なの各地に戦争の悲惨さを伝える戦跡が多数残っています。
 戦跡めぐりの案内は大島良満さん(戦跡ウオッチツアーなごやの会世話人)です。大島さんは小学生の時に空襲で家を失い、友だちを亡くしました。1990年から戦跡巡りを始め、今回で27回目。
 今回は名古屋市北部地域の9カ所を訪れました。参加者は小学校5年の男子児童から空襲を体験した80歳代の男性まで25人。

■ 「銃後」の犠牲
 最初に訪れたのはJR大曽根駅南(北区)にある「殉職者慰霊碑」です。1945年4月7日の空襲で、旧国鉄職員が避難していた防空壕に爆弾が直撃し、30人全員が死亡。うち12人が女性職員でした。大島さんの「男は徴兵されたため、当時は女性が多かった」の説明を聞き、参加者は碑の前で黙とうしました。夫と参加した女性(64)は「戦争は戦場の男性兵士だけでなく『銃後を守る』女性や子どもも犠牲になった。戦争はごめんです」と語りました。
 次に訪れた円明寺(東区)では、鐘楼につり下がっている石製のつり鐘を見ました。武器を製造するための金属類回収令(1941年施行)により強制的に供出された釣鐘の代用として造られました。戦後、先代住職が「戦争の痛みを忘れてはならない」と石の鐘をつるし続け、今にいたっています。小学生らが石の鐘を突くと、反響音のない「ボン」という鈍い音がしました。小学生は「おじいちゃんに誘われて参加しました。戦争はいけないと思います」と話しました。参加者全員がロウソクを灯し、石鐘の前で手を合わせ「平和」を誓いあいました。
 養念寺(東区)の座敷には小さな鐘が保存されていました。享保17年(1732年)の銘があり、そのためか供出を免れたようです。小さな穴が二つ空いています。1945年3月25日の空襲で本堂が全焼、そのときの爆弾の破片が貫通した跡です。じっと見ていた男性(56)は「こういう生々しい戦争の傷跡を若い人たちに見てもらいたい。いい平和教育になる」と言いました。
 名古屋城(中区)の石垣横には、戦争遂行のために徴発された馬や犬、鳩などを供養する碑があります。同地には旧日本陸軍第3師団司令部があり、馬や犬は輸送などに。鳩は通信に使われました。ほとんどの馬や犬は帰って来ませんでした。

■ 案内板ほしい
 初めて参加した中区の女性(61)は「自宅近くに戦争の跡が残っているなんて知らなかった。動物の供養碑など草むら奥の目立たない場所にあり、多くの市民は戦跡の場所を知らないと思う。案内看板の設置をしてほしい」と述べました。
 大島さんは「街中に残っている戦跡を保存し大切にするのも平和活動です。安倍晋三首相の改憲発言など、きな臭い今だからこそ、地道に草の根から平和を守る努力が必要。健康が許す限り今後も続けたい」と強調しました。
(8月20日 しんぶん赤旗)